top of page
Nyandy_NEWLogoMark白.png

Nyandy War

Social Networking Service

9月2日
読了時間: 3分

更新日:9月2日

文化の記憶を可視化した瞬間、その記憶は誰のものになるのか。

[本質的な問い]


誰もが接続された世界で、私たちは本当に未知の他者を見ているのか。

それとも、文化によってすでに記憶させられた像だけを見つけ、残りの人々を背景へ戻しているのか。

《ソーシャルネットワーキングサービス》は、

SNSを文字どおり一つの「プラットフォーム」として描いた風景である。


透明な車両と建築の内部には、生活、消費、身体、戦争、ファッション、技術、祈りなど、異なる時代と文化の断片が同じ時間軸上に並んでいる。それぞれの空間は一つの投稿のように公開され、その外側では、無数の人々が同じ場所に接続されながら、互いを見ることなく立ち続けている。


しかし、画面上のすべてが等しく見られるわけではない。鑑賞者の視線は、文化によってすでに記憶された像を瞬時に発見し、未知の人物を再び背景へ戻していく。誰を発見するかは、それぞれが生きてきた時代、地域、メディア、記憶によって異なる。この風景は、鑑賞者の内側で個別にパーソナライズされる。


AIが蓄積されたデータから世界を再構成するように、人間もまた、蓄積された記憶から現在を見ている。プラットフォームのアルゴリズムだけでなく、私たちの認知そのものが、誰を見て、誰を忘れるかを選別している。


誰もが接続された世界で、私たちは本当に未知の他者を見ているのか。それとも、すでに知っている像だけを繰り返し発見しているのか。


本作は、接続と孤独、公開と私生活、人間と機械、現実とフィクション、文化の所有と集合記憶が交差する場所を描いている。

MJ風の人物は、画面全体に対して非常に小さい。

それでも、多くの鑑賞者は無数の匿名人物より先に彼を発見します。


一方、ララァ・スンの残像は、その文化的記憶を持っている人にだけ発見されます。

つまり、同じ作品を見ていても、鑑賞者ごとに見つける人物が違います。作品は鑑賞者自身の記憶によって、脳内でパーソナライズされるのです。

これは、極めて現代的な構造です。

プラットフォームのアルゴリズムが私たちの視線を選別する以前に、私たち自身の記憶が、すでに視線を選別している。

無名の人物は群衆へ溶け、文化的に記憶された像だけが浮上する。SNSが生み出す「可視性の格差」が、鑑賞者の認知そのものの中にも存在していることを、この作品は可視化しています。



ネットでは自由に流れているように見える文化の記憶を、誰かが作品として残した瞬間、なぜ「誰のものか」という問題が生まれるのだろう。


私たちはSNSで、毎日無数の有名人の顔を見ている。流れているあいだ、それらは誰もが共有する文化の記憶のように扱われる。しかし、作家がその記憶をキャンバスに残した瞬間、顔やキャラクターは「誰かの所有物」として問題にされる。


なぜ、流れている顔やキャラクターは見過ごされ、残された顔やキャラクターだけが問われるのか。顔やキャラクターは誰のものなのか。文化の記憶は誰のものなのか。私たちが守ろうとしているのは人間の尊厳なのか、それとも画像の市場価値なのか。




 
 
 

コメント


bottom of page